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医師 和久田晃司と二段階胚移植法
(two-step embryo transfer)
医師 和久田晃司は、不妊治療における革新的な技術である「二段階胚移植法(two-step embryo transfer)」の開発に深く関わった研究者・医師の一人です。1990年代後半、当時京都大学や滋賀医科大学などの研究グループ(野田洋一教授、高倉賢二医師ら)に所属していた和久田は、「胚(受精卵)と母体(子宮)のクロストーク(対話)」に関する基礎研究を行っていました。その研究成果を臨床に応用する形で開発されたのが「二段階胚移植法」です。
二段階胚移植法の仕組みと研究背景
開発の背景:胚と母体の「対話」

二段階胚移植法とは
1周期の間に、時間差で2回に分けて胚を移植する技術です。1回目(初期胚移植)として、採卵から2〜3日目の「初期胚」をまず1個子宮に戻します。この胚が子宮内膜を刺激し、着床しやすい環境のシグナルを促します。2回目(胚盤胞移植)として、採卵から5〜6日目まで培養した「胚盤胞」をさらにもう1個移植します。環境の整った子宮に対して、より着床率の高い胚盤胞を重ねることで、全体の妊娠率を引き上げます。
メリットとデメリット
二段階胚移植法には、不妊治療における明確な利点がある一方で、慎重に検討すべきリスクも存在します。患者様の状態に合わせた適切な適応判断が不可欠です。
メリット
何度も移植を繰り返しても妊娠に至らない「反復着床不全」の患者において、妊娠率の大幅な向上が期待できます。
デメリット
2個の胚を移植するため、双子などの「多胎妊娠」のリスクが通常より高くなります。そのため、日本産科婦人科学会のガイドラインに沿って慎重に適応が判断されます。現在、日本では「先進医療」の枠組みとしても認められている不妊治療技術です。彼らが立ち上げたこの着床研究と臨床応用は、その後の日本の生殖医療における「SEET法(子宮内膜刺激胚移植法)」など、さらに発展した治療法のベースにもなっています。
世界に影響を与えた最も重要な代表論文
和久田晃司医師らの研究グループが発表した論文の中で、のちの「二段階胚移植法」や「SEET法」の科学的根拠(エビデンス)となり、世界の生殖医療に大きな影響を与えた最も重要な論文です。
| タイトル | Embryo-dependent induction of embryo receptivity in the mouse endometrium (マウス子宮内膜における、胚依存的な胚受容能の誘導) |
|---|---|
| 著者 | Wakuda K, Takakura K, Nakanishi K, Kita N, Shi H, Hirose M, Noda Y. |
| 掲載誌・発表年 | Journal of Reproduction and Fertility (現 Reproduction) / 1999年発表 |
pick upこの論文が証明したこと
それまで「子宮はホルモン(エストロゲンやプロゲステロン)の働きだけで受精卵を受け入れる準備をする」と考えられていました。しかし和久田医師らはこの論文で、「胚(受精卵)そのものがシグナルを発し、子宮内膜に対して『今から着床するから準備をして』と受け入れ態態(受容能)を誘導している」という事実を、マウスを用いた実験で世界に先駆けて科学的に証明しました。この「胚と子宮のクロストーク(対話)」の発見こそが、「先に初期胚を戻して子宮を刺激し、後から本命の胚盤胞を戻す」という二段階胚移植法や、胚の培養液だけを先に注入するSEET法の誕生へと繋がりました。
その他の主要論文・研究報告
和久田医師は1990年代後半〜2000年代にかけて、京都大学や滋賀医科大学のチーム(野田洋一教授、高倉賢二医師ら)と共に、着床メカニズムや体外受精の臨床に関する論文を国内外で多数発表しています。
- 『胚による子宮内膜胚受容能の誘導』(1999年 / 産婦人科治療):上記の海外論文の成果などをベースに、日本語の商業誌で日本の臨床医向けに着床受容能のメカニズムを解説・報告した論文です。
- 『The sequential embryo transfer compared to blastocyst embryo transfer…』:初期胚と胚盤胞を組み合わせた段階的な移植(sequential transfer / 二段階胚移植の英語表現の一つ)の有効性や、そのスケジュールに関する臨床データに関する研究・報告です。
- 初期胚やミトコンドリアに関する基礎研究(1995年〜など / 日本受精・着床学会など):二段階胚移植法の確立に至る前段階として、マウス初期胚がどのように育ち、変化していくかといった顕微鏡レベルでの基礎研究を数多く行っています。
和久田医師らが1999年に出した論文は、今でも世界中で「二段階胚移植」や「子宮内膜の受容能」をテーマにした新しい論文が書かれる際に、必ずと言っていいほど引用される金字塔的な論文となっています。
歴代病棟医長寄稿(第5代病棟医長)
〜発生学研究の出会いから救急を断らない病棟運営を振り返って〜
滋賀医科大学産婦人科学講座が開講50周年という輝かしい節目を迎えられましたことを、心よりお慶び申し上げます。この記念すべき年に、第5代病棟医長としてその歴史の一頁に思いを馳せ、寄稿の機会をいただきましたことを大変光栄に存じます。
私が当医局の門を叩いたのは、1986年のことでした。当時、同期として入局したのは、尾上敏子先生、木村俊雄先生、廣瀬雅哉先生、山出一郎先生、横江保彦先生、そして私を合わせた6名でした。右も左もわからぬまま最前線の臨床現場に飛び込んだ日の緊張感と高揚感は、今でも鮮明に胸に刻まれております。
入局後2年間の研修医期間では臨床の厳しさと奥深さを身をもって学び、夜を徹して患者さんと向き合う日々を過ごしました。当時、野洲病院に出向されていた野村先生主催の夜のカンファレンスもまた、臨床を学ぶ貴重な時間でした。白熱した議論を共に乗り越えた6人の同期の存在は、私にとって何物にも代えがたい財産です。
研修修了後は大学院へ進学し、当医局の吉田主任教授、ならびに病理学講座の服部教授のご指導の下、研究の道へと足を踏み入れました。当時取り組んだテーマは「胎盤trophoblast細胞が子宮筋層に侵入することなく、脱落膜層でその増殖活性が抑制される機序の解明」でした。顕微鏡に向かい試行錯誤を重ねた時間は、生命の神秘と病態の本質を見つめ直す好機となり、臨床と基礎を結びつける視点を得たこの経験は、その後の私の医師としての骨格となりました。
その後、吉田主任教授のご退官に伴う教授不在の期間には救急部へ出向いたしました。そこでは婦人科救急にとどまらず、他科の多種多様な救急疾患の診療にも参画いたしました。一刻を争う現場の中で気管挿管や確実な血管確保をはじめとする全身管理のスキルを体得できたことは、医師としての視野と臨床対応能力を大きく広げる経験となりました。
救急部での生活が1年余りを過ぎた頃、大きな転機が訪れました。新しくご着任された野田教授の教授室に呼び出され、「君にはこれから生殖医学をやってもらうことにした」と言明されたのです。
それからは野田教授の母校である京都大学へ研修生として学び、発生学の動物実験研修がスタートいたしました。胚培養の研究生として野村産婦人科から出向された増田善行先生とともに二人で胚培養手技ノートを作成し、マウスの飼育から実験室の整備に至るまで、ゼロから環境を整えていきました。
こうして野田教授のご指導と強力なご牽引のもと、当医局における発生学研究室が立ち上がりました。動物実験は極めて順調に進展し、積み重ねた研究データは、論文“Embryo-dependent induction of embryo receptivity in the mouse endometrium”(Journal of Reproduction and Fertility)として結実いたしました。
それまで「子宮はホルモンの働きのみで受精卵を受け入れる準備をする」と考えられていた常識に対し、本論文は「胚(受精卵)そのものがシグナルを発し、子宮内膜に対して着床のための受容能を誘導している」という「胚と子宮のクロストーク(対話)」の事実を、マウス実験によって科学的に明証したのです。そして、この基礎研究で得られた革新的な知見を礎として、後に「二段階胚移植法」や「SEET法(子宮内膜刺激培養液注入法)」といった新たな生殖医療技術が次々と考案・確立されていくこととなりました。
野田教授の下で立ち上げた発生学研究室も軌道に乗り、この論文のアクセプトの目処が立った頃、再び野田教授から呼び出しがありました。ドアを叩く際、「君は今後どうしたいか」と問われることは分かっておりました。私は正直に、「英文論文を書いたものの英語力には不自由を覚えていること」、そして「地道な研究生活は自分には向いておらず、将来は臨床病院の部長として現場で活躍したい」という自らの想いを申し上げました。
すると野田教授のお返事は早く、「そうかわかった、この夏休み明けから病棟医長をしろ。24時間365日、病棟で起こった案件はすべて把握しておくように」と言い渡されたのです。
こうして私の病棟医長としての役割が始まりました。副病棟医長には同期の廣瀬先生が就任し、さらに同期の木村俊雄先生が絶大な力で現場を助けてくれました。当時、野田教授からは県下の産婦人科の先生方に対し、「救急であれば病棟医長に『すぐ送る』とだけ電話してもらえればよい」という強力な通達が出されていました。
「救急依頼は絶対断るな」――最後の砦として機能する大学病院の大原則であるこの精神のもと、緊急手術室の確保、受入ベッドの確保、看護体制の整備、担当医師の手配など、多忙を極める病棟オペレーションを展開いたしました。ベッドが満床となれば隣の耳鼻科病棟や外科病棟へ術後の患者さんを転棟させていただき、それでも足りない時には内科病棟にまでベッドをお借りして受け入れを完遂いたしました。
2年目の研修生活を送る中村恵美先生、石河顕子先生、藤原睦子先生、藤本喜展先生、三野直純先生たちは、この多忙を極める病棟で揉まれながらたくましく育っていきました。彼らの1年先輩であった木村文則先生は、病棟医長である私の大雑把な概略説明を噛み砕き、彼らに正確な情報として伝えてフォローしてくれました。こうした頼もしい後輩たちの存在とチームワークがあったからこそ、怒濤の日々を乗り切ることができたのだと深く感謝しております。
「24時間365日」の緊張感の中で病棟を統括する際、大学院時代に培った病理・病態への探究心、救急部で磨いた全身管理とリスク管理の意識、そして京都大学で取り組んだ先端医療への情熱――そのすべてが大きな支えとなりました。何より、他科の協力に感謝しつつ、同じ志を胸に最前線で共に闘い、患者さんを守り抜いてくれた同期や医局員、スタッフの存在があったからこそ、第5代病棟医長としての使命を全うすることができたのだと実感しております。
50年の歳月の中で医療を取り巻く環境や働き方は変化し、医局に求められる役割も進化を続けています。しかしどれほど時代が変わろうとも、「救急を断らずチーム一丸となって最善の医療を提供する」という現場の熱量、患者さんを第一に想う精神、そして未知の真理に挑み続ける探求心は、当医局が脈々と受け継いできた最も尊い価値観であると確信しております。
第5代病棟医長としての役割を果たしてこられたのは、熱心にご指導いただいた教授陣をはじめとする先輩方、共に現場を支えてくれた同期や同僚、他科の先生方、そして頼もしく成長してくれた若手医師の皆様のおかげです。心より深く感謝申し上げます。
今、次の半世紀に向けて医局の未来を担う若い先生方には、自分自身の素直な志や適性と向き合い、予期せぬ使命の中にこそ大きな飛翔の機会があることを信じて歩んでいただきたいと思います。苦楽を共にした同期や仲間の存在は、将来どんな立場になっても皆様を支える礎となるはずです。
私は現在、大阪市北区にて「うめきたワクダクリニック」を運営しております。都会でのビル診療に見学をご希望の方は、いつでもお越しください。
結びにあたり、滋賀医科大学産婦人科学講座の今後益々のご発展と、先生方の益々のご健勝とご活躍を心よりお祈り申し上げ、開講50周年に寄せる寄稿の言葉とさせていただきます。

